鴨山演習林の歴史

鴨山演習林の歴史

1.北設楽郡郡有林の造成

  明治の半ばごろ、名古屋を中心とする尾張地域に対して教育や産業などに大きく立ち遅れた郷土の将来を憂いた北設楽郡の有志が、今の豊田市稲武地区出身の古橋源六郎義真氏を中心に集いました。そして、郷土の興昌の根元は教育にありと、林業を中心とした実業学校を創立するために、その財源を山林に求めて造林事業を計画しました。
 明治29年、今の鴨山演習林の地にあった御料林の払い下げを申請し、懸命の努力の結果、明治33年に事業が認可され、造林が始まりました。
 当時、その地は老木生い茂る原生林状態であったために当初の造林事業は難航しましたが、林道開設などの改善策が功を奏し、少しずつ順調に進むようになりました。

2.北設楽模範造林組合の設立と鴨山演習林の誕生

 大正12年に郡制が廃止されたために鴨山郡有林は発展的に解消し、実業教育振興のための基本財産造成の趣旨を受け継いで北設楽模範造林組合として再出発しました。
 昭和15年、愛知県から当時の田口町に学校設立に関して照会がありました。校舎や校地などの一切の設備費は地元負担で、という条件付でした。そのために、模範造林組合は鴨山に造林された木を売却してその資金を賄ったのです。そして、昭和16年2月に田口農林学校の設立が許可され、昭和16年4月より開校することができました。
 当時、田口農林学校の設立用件の中には、実習用地として演習林約30町歩を所有することが含まれていました。このために、模範造林組合は昭和18年に所有する組合林の一部を演習林として田口農林学校に貸し出し、地上権を設定しました。それが、現在の鴨山演習林です。

鴨山演習林を訪れた人びと

1.植樹養富源
 「植樹養富源」は、明治35年に当時の鴨山模範造林組合の造林地視察に来山した、大日本山林会幹事会・田中芳男氏の書です。
 田中芳男氏は幕末から明治・大正の初期にかけて農林水産業、植物・生物学などの基礎を築いた学者であり、また、明治新政府農商務省の局長として広く欧米をはじめとする外国の新しい知識や技術の指導に積極的に取り組み、日本農会・日本山林会・日本水産会の創設にあたり、常に指導的役割を果たされました。さらに真珠の養殖や、リンゴ・ビワの栽培にも自ら手を差し延べ、動物園・博物館・水族館などの建設やアスファルト舗装の普及させるなど、多岐にわたり近代日本の発展に尽くされた人物です。
 当時の鴨山は、北設楽郡民の期待の大きい財産林であり、田中芳男氏をはじめとして、多くの学者や技術者たちの目が注がれていました。明治の人びとが植林にかけた情熱や、田中芳男氏の「植樹養富源」「山水は国の財源」という思想は、木立の生長と共に今日まで鴨山演習林に学ぶ生徒にしっかりと継承されてきました。まさに、鴨山演習林は、「木々」も「人びと」もともに育んでくれる場所なのです。
 この書は、85年もの歳月を経て傷みがひどくなりましたが、卒業生の皆さんの好意により昭和62年に表装し直し、再び鴨山演習林の宿舎に掲げられています。

2.鴨山芳名録

 鴨山演習林には演習林の実習・研修に訪れた方々に記帳していただく芳名録・随想・日記等が、田口農林学校創設以来昭和16年より置いてあり、実に多くの方々に記帳していただいています。
 日本農業教育の先駆者といわれる愛知県農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)初代校長・山崎延吉先生や山形県自治講習所・加藤完治先生も明治から大正にかけて7~8回訪れています。また、天竜の金原明善氏、三河の丸山喜兵衛氏、古橋源六郎氏も鴨山の地を訪れたことが記されています。